I-12. モルぺウスの腕の中で

夢の神はしばしば眠っている姿で表されます。人間にどんな夢を見せたものか、彼自身が見る夢の中で思案しているのかのようです。

自分がしている仕事は何たるかをその身でしっかり知っていることが、仕事を上手くこなすコツなのでしょう。

休む時はしっかり休むのも大事ですね、休息もまた恵みなのですから。

人間の夢を形作るのは、眠りの神ヒュプノスの3人の子供たちの役割です。動物を見せる「威嚇者」ポベトル、無生物を見せる「仮像者」パンタソス、そして人間の姿を見せる「造形者」モルペウス。

René-Antoine Houasse《イリスが近づいて目を覚ますモルペウス》1688-1689

神々の伝令を務める虹の女神イリスに起こされ、眠たげな顔に腕をかざすモルペウスの背には、大きな翼が見えます。これから彼は、この翼で音もなく羽ばたき、イリスに頼まれた夢の神としての役目を果たしに行くのです。

「ぐっすり眠り込んでいる」ことを、 « être dans les bras de Morphée »(モルペウスの腕に抱かれている)と表現します。なんだか心に残る夢を見たなら、それは神の腕に包まれて寝ていた証なのかもしれません。

I-11. ミューズをからかう

人々に文化的活動を促すのは、9人の女神たちの役割です。

でも、気まぐれな女神たちが降ろしてくれるインスピレーションをぼんやり待っていたら、いつになるかわかりません。

活動を極めたいなら、こちらから女神たちにちょっかいを出すくらいの気概がないといけませんね。

Michel Dorigny《アポロンとミューズたち》v.1640

ゼウスと記憶の女神ムネモシュネの逢瀬の結果、9人のムーサたちが生まれました。音楽をはじめとする種々の技芸に秀でたアポロンの指揮に従うこの女神たちは、人間のあらゆる知的活動を司り、詩人たちを媒体として、芸術の数々をこの世に生み出します。

Pierre Mignard《カリオペ、ウラニア、テルプシコラ》17ème siècle

奥で天球儀に寄りかかり星を読んでいるのが、天文のウラニア。

叙事詩のカリオペは、その傍らで手元の書板に書きつける内容を練っているようです。

こちらを見つめるのは合唱隊抒情詩と踊りのテルプシコラ。その手には立派な竪琴があります。

Eustache Le Sueur《クレイオ、エウテルペ、タレイア》1652-1655

手前から、役者の仮面を大切そうに見つめる喜劇のタレイア。

側の分厚い書物に書き記すべきことが起こるのを静かに待っている歴史のクレイオは、祝福の音を鳴らすラッパを携えています。

抒情詩のエウテルペの吹くふくよかな笛の音が聞こえてきそうです。


Eustache Le Sueur《メルポメネ、エラト、ポリュヒュムニア》années 1650

恍惚の表情で声を震わせる独吟抒情詩のエラト。一般に竪琴を持つとされていますが、ここではヴィオラをかき鳴らしています。

讃歌のポリュヒュムニアは地面に腰を落ち着け、しめやかに譜面に目を落としています。

高貴な面差しをこちらに向けているのは、悲劇のメルポメネでしょう。その額にはぶどうの冠が見えます。

ムーサのことをフランス語ではミューズと呼び、「ミューズが庇護する活動のいずれかを追求する」こと、特に「詩作に励む」ことを、若干の恥じらいや冷やかしを込めて « taquiner la muse »(ミューズをからかう)と表現します。

I-10. バッカスの栄光の中で

ディオニュソスの旅の始まりは、狂気に他なりませんでした。では、酒神が人々にもたらすものは、喜びか、はたまた狂気か。

楽しいことや美味しいものも、行き過ぎては後悔することになりかねません。何かを失ってから狂気の沙汰と振り返っても、もう遅いのです。

過剰摂取にはくれぐれもご注意を。

ゼウスの腿から誕生を果たしたディオニュソスでしたが、父の庇陰も虚しくヘラに目を付けられ、長い苦難の道を歩むことになります。彼は、ヘラによって育ての親に狂気を吹き込まれ住処を失い、ニンフたちに匿われて成長した後、これまたヘラのせいで狂気に侵され、転々と地上を彷徨います。この間、ぶどうの木を発見したディオニュソスは、ぶどう作りや酒の神として、熱狂的な信者を獲得していきます。

William-Adolphe Bouguereau《バッカスの青春》1884

ディオニュソスの異名バッコスが転じてローマ神話名バッカスとなりましたが、 « être dans la gloire de Bacchus »(バッカスの栄光の中にいる)と言えばすなわち「酔っている」という意味になります。酒の神を崇める儀式となればその狂乱の程は恐ろしいもので、今日 « une bacchanale »(バッカス祭)は単に「乱痴気騒ぎ」を意味する言葉ですが、伝わるところ数千人もの告発者を出す危険な祭りであったようです。

I-9. 腿から生まれたディオニュソス

アポロンやアルテミス、アテナが生まれながらにして神であったのに対し、長い旅路の末に天上に舞い戻り、例外的に神となった者があります。

自分には素質や才能があるだなんて、思い込みに過ぎないのかもしれません。

でも、一にも二にも信じて行動を重ねていけば、人の評価は後から付いてくるものです。

Gustave Moreau《ジュピターとセメレ》1894-1895

知恵の女神アテナはゼウスの頭から飛び出してきましたが、ゼウスの腿から出たといえば酒の神ディオニュソスです。

彼はゼウスがテバイの王女セメレに身ごもらせた子供でした。正妻ヘラはセメレの妊娠を憎み、ヘラに陥れられたセメレは、妻に会う時の姿で自分に会ってほしいとゼウスにせがみます。ゼウスはセメレの願いをすべて受け入れるという誓いをあらかじめ立てていたため、これに逆らうことができず、雷霆を携えて彼女の前に現れます。神でないセメレはこれに耐えられるはずもなく、焼け死んでしまいますが、ゼウスは彼女の亡骸から胎児を取り出して自分の腿にくくり付け、そのまま臨月を迎えたといいます。

「自分をたぐいまれな存在だと思い込む」ことを、ゼウスのローマ神話名ジュピターを用いて « se croire sorti de la cuisse de Jupiter »(自分がジュピターの腿から出たと信じる)と言います。これは自信家な人間を揶揄した表現ですが、実際、ディオニュソスは、死すべき者であるところの人間を母に持つため、本来ならば天上の神々の定義から逸脱しています。彼が神々の列に加えられたのは、地上を彷徨いながら数多の信者を獲得して自分の神性を誇示し、ついには冥府まで降って、亡き母を救い出した後のことでした。

I-8. 復讐の女神たち

愛の女神と時を同じくして、この世に生まれたものがあります。

何事もすんなり「めでたし、めでたし」とは行きにくいのが世の常なのでしょう。思わぬところから舞い込んだ幸運には、喜ばしくないおまけも付いてくるかもしれません。

飛びつく前に、今一度確認を。

ローマ神話におけるフリアエは、ギリシア神話に登場する復讐の三女神エリニュス、すなわち容赦ない憎しみのアレクト、殺人の復讐者ティシポネ、嫉妬のメガイラに相当します。切り落とされたウラノスの男根からこぼれた精液からアフロディテが生まれた一方で、同時に飛び散った血液からはこの女神たちが生じたのでした。

William-Adolphe Bouguereau《復讐の女神たちに責められるオレステス》1862

« une furie »(フリアエ)と言えばそれだけで「性悪女」を意味し、先述した « être une Vénus »(ヴィーナスである)とは対になる表現だと言えますが、こちらはどちらかというと性格について言及しています。3人の中でも特に嫉妬の女神メガイラをとって « C’est une vraie mégère »(真のメガイラだ)と言うことが多いようです。「気難しく怒りっぽい、がみがみうるさい鬼婆」といったところでしょうか。

I-7. 完全武装で生まれたアテナ

ギリシア神界最大の女神とも称される知恵の女神アテナ。

この女神の誕生はゼウスの支配を揺るぎないものとしますが、彼女を生み出す過程は、大神ゼウスといえど容易くはありませんでした。

それなりのものを得るためには、頭が痛くなるほど考え抜くことも必要なのです。

燦々と輝く兄アポロンに隠れて、妹アルテミスはすっかり目立ちません。月にまつわる神格は多く存在しますが、アルテミスは特に生まれたての三日月を想わせる乙女。この内気な月の女神が目につきにくいのは、処女神という共通の性質を持つ別の女神アテナの存在感が強いためでもあるでしょう。

アテナの母は、ゼウスの最初の妻であった女神メティスでした。メティスは、クロノスに子供たちを吐き出させるための薬を用意した、賢い「思慮」の女神です。しかしゼウスは、メティスがすでにアテナを身ごもっている時、この娘の後にメティスから産まれる男の子に己の座を奪われるであろうという予言を恐れて、身重の妻を呑み、自身の体内に取り込んでしまいます。娘はそのままどんどん成長し、いよいよ限界まで達すると、ゼウスは自分の頭を斧で叩き割らせます。するとたちまち、すっかり武装を固めたアテナが勢いよく飛び出してきたのでした。

René-Antoine Houasse《ジュピターの頭から完全武装で生まれるミネルヴァ》~1688

ゼウスの頭から生まれ出る女神の様子からきたのが « une idée sortie toute armée de la tête de quelqu’un »(~の頭から完全武装して出てきた考え)という表現で、「異論の余地のない、あらかじめ完全に出来上がったアイデアや計画」を意味します。アテナはこの生まれから、ゼウスの数ある子供たちの中でも特にお気に入りの娘となります。

彼女は見ての通り戦争を司る女神ですが、母の資質を受け継ぎ、戦争とは言ってもただ力に訴えるのではない理知的な側面を好み、冷静な指導者として数々の英雄を導きました。彼女の活躍は戦時に限らず、平時は音楽や織物、陶芸など種々の技術の女神として、自身の名を冠する都市国家を守護しました。

I-6. アポロンの月桂冠

美女の代名詞がアフロディテなら、美男はアポロンでしょう。

太陽神とされるアポロンですが、太陽は、外に向けて表現していく積極的な自己像を司ります。

眩しいばかりに見えるあの人も、輝きの陰に失敗や痛みを隠し、努力を重ねているのかもしれません。

壮齢のゼウスに対し、息子アポロンは凛々しい青年の姿で想起され、« C’est un vrai Apollon »(真のアポロンだ)と言えば「非常に美しい人だ」という感嘆の念を示すことになります。彼の母である女神レトは、ゼウスの正妻ヘラの嫉妬を受けてあらゆる大陸で出産することを阻まれましたが、小さな浮島であったデロス島に逃れ、やっとの思いで双子を産み落としました。兄アポロンは太陽神、妹アルテミスは月の女神とされ、フランスに絶対王政を敷いたルイ14世の異名「太陽王」はアポロンに由来しています。

芸術、弓、医術、予言、牧畜、哲学など、様々な技芸に秀でたアポロンを、歴代の権力者はこぞって自らに結び付けようとし、アポロンの神木である月桂樹の冠を戴きました。例えばカエサルやナポレオンが思い浮かぶでしょう。「過去の栄光の上にあぐらをかいて努力しない」ことを、皮肉を込めて « s’endormir sur ses lauriers »(月桂樹の上で眠り込む)と言います。

Jean Auguste Dominique Ingres《玉座のナポレオン》1806

栄光の象徴とされる月桂樹ですが、実はアポロンの悲恋の形見でもあるのです。ある時、エロスが小さな弓矢で遊んでいたのを、弓の腕を誇るアポロンがそそのかしました。アフロディテの子ともされるエロスは、幼く愛らしい姿ながら、恋心を操る手強い神。エロスは恋を吹き込む金の矢でアポロンを、そしてもう片方の恋を厭わせる鉛の矢で河の娘ダフネを射抜きます。

Carlo Maratta《ダフネを追うアポロン》1681

アポロンはたちまちダフネに惚れ込み、一方で彼女は逃げまどうばかり。アポロンの手が触れた瞬間、ダフネは父である河の神に強く願い、みるみるうちに月桂樹の木に姿を変えてしまいます。二度と会えない彼女を忘れまいと、アポロンはその枝を額に巻きつけたのでした。

I-5. ヴィーナスの島へ

女神アフロディテに相当するのが金星です。この「愛」と「美」を司る星は、創造的感性の指標にもなります。

アイデアはふとした拍子に思いも寄らないところから生まれ出るものです。その煌めきは、人々の心を喜びで結びつける力になり得るでしょう。

William-Adolphe Bouguereau《ヴィーナスの誕生》1879

愛と美の女神アフロディテは、ローマ神話のヴィーナスと同一視されます。« être une Vénus »(ヴィーナスである)ことは、すなわち「美しい女性である」ことを指す、わかりやすい言い回しです。

この美しい女神は、ギリシア神話の中でも風変わりな誕生譚を持っています。というのも、クロノスがその父ウラノスを倒す際に切り落とした男根からこぼれた精液が、海の泡となり、そこからアフロディテが生まれたのです。そして彼女が初めて地に足をつけた場所が、キティラ島でした。

Antoine Watteau《シテール島への船出》1717

Kythira(キティラ)島はフランス語表記だとCythère(シテール)島になります。アントワーヌ・ヴァトーがこの島へ出で立つ恋人たちを描いていますが、L’embarquement pour Cythère(シテール島への船出)というこの画のタイトルは、そのまま « s’embarquer pour Cythère »(シテール島へ乗り出す)という言い回しになっています。「恋人と会う約束がある」ことを指し、特にそれが初めての場合に用います。

恋人たちに、女神の加護のあらんことを。

I-4. プロメテウスの企て

この寒い季節に心を温める「火」のお話。

火のエレメントは情熱を象徴します。熱い気持ちが激る時、人は無謀な挑戦をすることもあるでしょう。それも大切な人を想えばこそ。

今あなたの身近にあるその当たり前の幸せは、誰かが手に入れてくれたもの、守り抜いてくれたものなのかもしれません。

Jan Cossiers《火を運ぶプロメテウス》1630

怒ると怖いゼウスに何度も反逆した人類の恩人がプロメテウスです。彼はティタン神族でありながら、ゼウスが勝つ未来を見据えてオリンポス神族に味方したため、戦いの後も神々と人間の間を行き来することをゼウスに許されていました。

しかし彼は、神々と人間の肉の取り分を決める時に、あろうことかゼウスを欺き人間が美味しい部分を得られるよう謀ったがために、ゼウスの恨みを買うことになります。肉を焼けぬよう、ゼウスが人間から火を奪った時にも、プロメテウスが火種を盗み出して人間に与え、火の起こし方や使い方を教えました。こうした果敢なプロメテウスの企ての数々から、« se lancer dans une entreprise prométhéenne »(プロメテウスの企てに身を投じる)というと、「危険を冒す」ことを意味します。文字通り、「火遊びをする」という意味合いに近いかもしれません。

ところがゼウスは、プロメテウスになにやら重大な秘密を握られているらしく、強く出ることが出来ません。痺れを切らしたゼウスは、人間にはパンドラを送り込み、プロメテウスには秘密を吐くまでコーカサス山に鎖で繋ぎ、大鷲に肝臓を啄ませるという拷問を課すことにしました。不死の身体を持つプロメテウスの肝臓はその都度修復するので、この苦しみは延々と繰り返されます。

Peter Paul Rubens《縛られたプロメテウス》1611-1612

ついにプロメテウスが明かしたゼウスの秘密とは、海の女神テティスとの間に子を成してはならないということでした。なんでも、テティスは父親を凌ぐ子を産むという運命にあるらしいのです。そして、実に好色なゼウスは秘かに彼女を狙っていたところでした。これを聞いてゼウスはプロメテウスを解放しましたが、テティスは確かに父親を上回る英雄アキレウスを産むことになります。

パンドラやアキレウスについては、また後ほど…。

※ プロメテウス Promêtheús は古代ギリシア語で « Prévoyant »(予見者、先見の明がある)の意

I-3. ゼウスの雷

ギリシア神話の「カミナリ」おやじ、ゼウスの力にまつわるお話。

クロノスが土星であったのに対して、ゼウスは「拡大」や「発展」を示す木星に相当します。

世界を新しい秩序のもとに統制したゼウスですが、その力は他者から授けられたものでした。幸運の星は、仲間あってこそ活かせるものなのでしょう。

ティタン神族の圧倒的な力を前にして苦戦するオリンポス神族でしたが、ゼウスは、ウラノスやクロノスによって地下に幽閉されていた、これまた巨人族であるキュクロプスたちを解放し、味方につけます。

この時キュクロプスたちは、ハデスに「かくれ帽」を、ポセイドンに「三叉の矛」を、そしてゼウスに強烈な光を放つ「雷霆」を与えました。これを以て彼らはティタン神族を倒し、ゼウスが天地を、ポセイドンが海を、ハデスが冥界を領分とします。

Cornelis van Haarlem《打ち負かされるティーターン》c.1588

天地を統べる最強の « Tonnerre de Zeus »(ゼウスの雷)は、通俗的に「激しい怒りを示すののしり言葉」という意味で使われます。日本でも、怒鳴りつけたり叱責したりすることを「雷を落とす」と表現しますが、大神ゼウスに雷を落とされたら一巻の終わりですね。