On imagine de temps en temps des choses rocambolesques. Ces rêveries ont souvent une l’apparence impossible. Cependant, désirer l’impossible, ce n’est pas tout à fait absurde.
On appelle le rêveur « le pêcheur de lune ». Certes, c’est impossible pour les humains de pêcher la lune, au moins pour le moment. Mais en fait, il y a plus de 50 ans, les humains avaient déjà atteint la lune.
Depuis la première reconnaissance de la lune, les humains admiraient toujours le ciel de nuit en adorant cet objet brillant et les autres astres célestes comme des dieux, et inventaient beaucoup d’histoires variées.
En 1943, quand Saint-Exupéry a écrit Le Petit Prince, ce n’était encore qu’une illusion ou qu’une imagination irréaliste qu’un homme voyage entre les étoiles. Mais, moins de 20 ans plus tard, en 1961, les humains sont arrivés à faire un vol spatial.
Dans 20 ans, ce sera toujours impossible de pêcher la lune ; mais qui pourrait affirmer vraiment qu’il n’arriverait pas que les humains pêchassent sur la lune ?
En effet, on dit que les humains ne perçoivent qu’encore 15 % des corps qui existent dans l’espace. Le reste 85% est ouvert pour l’avenir, c’est-à-dire qu’il existe des possibilités presque infinies.
C’est une chose non douteuse : dans une longue histoire, petit à petit, nous avons toujours rendu les impossibles possibles.
ディオニュソスの異名バッコスが転じてローマ神話名バッカスとなりましたが、 « être dans la gloire de Bacchus »(バッカスの栄光の中にいる)と言えばすなわち「酔っている」という意味になります。酒の神を崇める儀式となればその狂乱の程は恐ろしいもので、今日 « une bacchanale »(バッカス祭)は単に「乱痴気騒ぎ」を意味する言葉ですが、伝わるところ数千人もの告発者を出す危険な祭りであったようです。
「自分をたぐいまれな存在だと思い込む」ことを、ゼウスのローマ神話名ジュピターを用いて « se croire sorti de la cuisse de Jupiter »(自分がジュピターの腿から出たと信じる)と言います。これは自信家な人間を揶揄した表現ですが、実際、ディオニュソスは、死すべき者であるところの人間を母に持つため、本来ならば天上の神々の定義から逸脱しています。彼が神々の列に加えられたのは、地上を彷徨いながら数多の信者を獲得して自分の神性を誇示し、ついには冥府まで降って、亡き母を救い出した後のことでした。
« une furie »(フリアエ)と言えばそれだけで「性悪女」を意味し、先述した « être une Vénus »(ヴィーナスである)とは対になる表現だと言えますが、こちらはどちらかというと性格について言及しています。3人の中でも特に嫉妬の女神メガイラをとって « C’est une vraie mégère »(真のメガイラだ)と言うことが多いようです。「気難しく怒りっぽい、がみがみうるさい鬼婆」といったところでしょうか。
ゼウスの頭から生まれ出る女神の様子からきたのが « une idée sortie toute armée de la tête de quelqu’un »(~の頭から完全武装して出てきた考え)という表現で、「異論の余地のない、あらかじめ完全に出来上がったアイデアや計画」を意味します。アテナはこの生まれから、ゼウスの数ある子供たちの中でも特にお気に入りの娘となります。
壮齢のゼウスに対し、息子アポロンは凛々しい青年の姿で想起され、« C’est un vrai Apollon »(真のアポロンだ)と言えば「非常に美しい人だ」という感嘆の念を示すことになります。彼の母である女神レトは、ゼウスの正妻ヘラの嫉妬を受けてあらゆる大陸で出産することを阻まれましたが、小さな浮島であったデロス島に逃れ、やっとの思いで双子を産み落としました。兄アポロンは太陽神、妹アルテミスは月の女神とされ、フランスに絶対王政を敷いたルイ14世の異名「太陽王」はアポロンに由来しています。
芸術、弓、医術、予言、牧畜、哲学など、様々な技芸に秀でたアポロンを、歴代の権力者はこぞって自らに結び付けようとし、アポロンの神木である月桂樹の冠を戴きました。例えばカエサルやナポレオンが思い浮かぶでしょう。「過去の栄光の上にあぐらをかいて努力しない」ことを、皮肉を込めて « s’endormir sur ses lauriers »(月桂樹の上で眠り込む)と言います。
Kythira(キティラ)島はフランス語表記だとCythère(シテール)島になります。アントワーヌ・ヴァトーがこの島へ出で立つ恋人たちを描いていますが、L’embarquement pour Cythère(シテール島への船出)というこの画のタイトルは、そのまま « s’embarquer pour Cythère »(シテール島へ乗り出す)という言い回しになっています。「恋人と会う約束がある」ことを指し、特にそれが初めての場合に用います。
しかし彼は、神々と人間の肉の取り分を決める時に、あろうことかゼウスを欺き人間が美味しい部分を得られるよう謀ったがために、ゼウスの恨みを買うことになります。肉を焼けぬよう、ゼウスが人間から火を奪った時にも、プロメテウスが火種を盗み出して人間に与え、火の起こし方や使い方を教えました。こうした果敢なプロメテウスの企ての数々から、« se lancer dans une entreprise prométhéenne »(プロメテウスの企てに身を投じる)というと、「危険を冒す」ことを意味します。文字通り、「火遊びをする」という意味合いに近いかもしれません。