II-8. テントに引きこもるアキレウス

燃えたぎる怒りをそのままにしておくと、どんどん膨れ上がり、気付いた時にはその火種が何だったのかわからなくなってしまっていることもしばしば。

見境なく燃え広がる怒りの最中にあっては気付けないかもしれません。一番身近にある、大切なものに火の粉が降りかかっていることに。

古代ギリシアの詩人、ホメロスの叙事詩『イリアス』にちなみ、「英雄的な」、「劇的な」ことを形容して « homérique »(ホメロス的な)と表現することがあります。トロイア戦争を描いた作品として誉れ高い『イリアス』ですが、この大叙事詩が幕を開けるのは、戦争が始まってから10年目、すなわち、最後の1年に突入してからのことなのです。

素描、アキレウスとブリセイス(作者不詳)、1790年頃

物語はギリシアの豪傑アキレウスの「怒り」に焦点を当てて展開します。彼の怒りの契機は、妾として愛していた女奴隷ブリセイスを自軍の総大将アガメムノンに奪い取られたことでした。怒れる英雄が自身の陣営に引きこもって出て来なくなってしまい、ギリシア側は次第に窮地に追いやられていきます。 « se retirer sous sa tente »(自分のテントに引きこもる)という表現はこの時のアキレウスの様子を指し、「怒りにまかせて大義名分を投げ打つ」ことや、「すねて孤立する」ことを意味します。

アキレウスの怒りは、アガメムノンの謝罪を受けても尚収まることはありません。ギリシア勢の惨憺たる敗北を見かねた英雄の親友パトロクロスは、英雄の鎧を借り受けて自らが出陣します。敵を薙ぎ倒し、トロイア城下まで突き進んだこの果敢な青年にとどめを刺したのは、トロイアの勇将ヘクトルでした。アキレウスは怒りの矛先を親友の仇へと差し向け、再び戦場に戻ることとなります。

Gavin Hamilton《パトロクロスの亡骸に嘆くアキレウス》1760-1763