II-5. 羊飼いのリンゴ

あれもいい、これもいい。どれかを諦め、どれかを選び取らなければならないこともあるでしょう。

そんな時、目の前にある選択肢が美味しそうに見えるならば尚のこと、慎重な判断が求められます。

若気の至りでは済まされない、人生の岐路になる選択かもしれませんから。

ギリシア全土の王侯が参戦し、10年に及ぶこととなる大戦、トロイア戦争の端緒は、英雄ペレウスと女神テティスの婚礼での出来事でした。この花嫁は、ゼウスがプロメテウスの忠告を受けて手を引いた、あの海の女神です(参照:I-4. プロメテウスの企て)。

Cornelis van Haarlem《ペレウスとテティスの婚礼》1593

婚礼にはあらゆる神々が集いましたが、不和の女神エリスは招待されませんでした。怒ったエリスは、「最も美しい女性へ」と刻まれた黄金のリンゴをひとつ式場に投げ入れます。たちまち女神たちによるリンゴの取り合いになりますが、ゼウスは、正妻ヘラ、お気に入りの娘アテナ、そして「美」の女神たるアフロディテの中からひとりを選ぶなどという面倒な責任を自分では負いたくありませんから、審判を羊飼いパリスに委ねることにしました。この若者に、3人の女神はそれぞれ旨い話を持ち掛けます。ヘラは全アジアを統べる権力を、アテナは戦の勝利と知恵を、アフロディテは人の世で一番美しい女と名高いヘレネを、リンゴと引き換えに与えることを約束しました。

Antoine Watteau《パリスの審判》v.1718-1721

パリスが選んだのは美女でした。こうしてアフロディテの助力を得たパリスは、すでにギリシアのスパルタ王妃となっていたヘレネを略奪します。かつてヘレネを得るべく名乗りを上げたギリシアの諸王は、求婚の条件として、この絶世の美女とその夫となる人物に生涯の忠誠をあらかじめ誓っていたので、パリスは全ギリシアを敵に回すこととなります。ところがじつは、この浮かれた若者の素性は、小アジアの都市国家トロイアの王子なのでした。こうしてギリシア対トロイアの争いが幕を開けます。

このことから、「些細な選択の結果悲惨なことが起こる、そのきっかけの出来事」を、 « une pomme de discorde »(不和のリンゴ)、または « le jugement de Pâris »(パリスの審判)と呼ぶようになりました。