II-1. アンフィトリオン

神々に劣らずギリシア神話の多くの部分を彩るのが英雄たちです。英雄は神の血を引くものの、基本的にはあくまで人間と同様に寿命を持つ存在です。Mortel(死すべきもの)たる英雄たちの戦いは、Immortel(不死なるもの)たる神々との対比によって、より悲惨なものとして鋭く浮き彫りになります。ここからは、フランス語のイディオムの由来となった彼らの活躍や戦争の動向を追っていきます。

はるか昔、神が人間と交わってこの世に生み出させる英雄は、人々を災厄から救う神の恩寵と見做されていました。後に、神々や英雄は、時の権力者を示すものとして、しばしば芸術作品に描き出されることになります。

ルイ14世が絶対王政を敷いていた17世紀のフランスで、劇作家モリエールは、大神ゼウスのとある恋の物語をおもしろおかしく喜劇に仕立てたのでした。

神話がフランスで独自に変化し言語に定着した一例を紹介します。

ギリシア神話随一の英雄と言えばヘラクレスです。彼は大神ゼウスを父に持ち、その怪力たるや腕力で地を破壊し天を押し上げる程で、神々に引けを取らない超人的存在でした。もっとも、この伝説的な英雄は、死後には神々の列に加わることとなります。これは、そんな英雄の誕生にまつわるお話です。

ミケナイの王族であったアンフィトリオンは、妻となるアルクメネの父であり自らの叔父にあたる王を事故で殺めてしまい、テバイで亡命生活を送っていました。彼はアルクメネの求めに応じ、その兄弟の仇討ちに行きますが、彼が留守にしている間、ゼウスがアルクメネに恋してしまいます。しかし彼女は貞淑な女性であったため、一筋縄ではいきません。ゼウスは夫の姿で彼女に近づくことを思い付き、夜の長さを3倍にしてアルクメネとの逢瀬を楽しみました。翌日、帰宅したアンフィトリオンが共に床についた妻の様子を不審に思い問い質すと、ゼウスが姿を現して事の次第を説明し、彼をなだめたといいます。こうしてアルクメネが孕んだゼウスの子がヘラクレスであり、一晩違いのアンフィトリオンの子イピクレスとは双子の兄弟になります。

Amphitryon (Molière), 1682年版の扉絵

つまるところアンフィトリオンは神によって Cocu(寝取られ男)にされてしまったわけですが、モリエールはこの物語を脚色して喜劇を作りました。その中では、アンフィトリオンに化けたゼウスとアンフィトリオン本人が鉢合わせしてしまいます。この時召使たちは、どちらが本物のアンフィトリオンなのかを見分けようとし、自分たちに食事を振舞ってくれるのが本物の主人である、ということにして二人を観察したのでした。

モリエールのこの作品は大ヒットし、饗宴の場などで美味しい食事を供する「寛大な主人」のことをフランス語で « être un amphitryon »(アンフィトリオンである)と表現するようになりました。